【作者】 | 余白さん (男性・89才・静岡県) |
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【作品の題名】 | 白い目薬 |
母さん、冥界(そこ)からオレが見えますか。
オレ、来年は遂に九十の大台。母さんの享年を遥かにこえます。
丈夫に育ててくれてありがとう。
母さんとの想い出はキリがないけど中でもとっておきはこのエピソード。
小四の頃、歳の瀬の路地裏でメンコ遊びに興じていると
一陣の突風に襲われて目にゴミが。
「痛ッ!」 慌てて家の中へ駆けこむと
母さんが「やッ大変」と赤子の弟を脇へ置き、左の二の腕でオレを支え、
右手で乳房を掴むと オレの目めがけて勢いよく絞りだす
集中放乳?作戦。
その一条の白い目薬はすっかりゴミを洗い流してくれたっけ。
八十年後の今も母さんの肌の温もりと共に鮮やかに覚えています。
母さん、オレが母さんの許へいける日は遠くない。
五十年ぶりに会える母さんはどんな迎え方をしてくれるだろう。
母さんはお茶目だからこんなこと言いそう。
「アレ、えらいお年寄り。もしかしてわたしの父ちゃん?」
そしたらこう返してやろう。「三男静雄只今母上の御許へ参上」。
【作者】 | さやかさん (女性・15才・千葉県) |
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ママへ
ママが亡くなってそろそろ3年が経とうとしています。
天国での生活はどうかな。ひいおばあちゃんには会えたかな。
私は中学校を卒業して、新しい生活を始めている最中です。
中学校の入学式、病気で辛いなか来てくれたことが本当に嬉しかったよ。
卒業式も一緒に写真を撮りたかったな。
私はこの三年間でたくさんの人に支えられて大きく成長しました。
例えば身長。未熟児で生まれてずっと小さかった私だけど、
ママと同じ身長になったよ。もし隣に並んだらママきっとびっくりするね。
それと家事も少しずつ覚えた。ママほどうまくできないことがほとんどだけど、
パパの負担を少しでも減らせる ように頑張っています。
そしてもちろん勉強も。たくさん努力してやっと定期テストで一位を取れたよ。
高校も第一志望に受かった。多くの人が支えてくれて、ここまで成長しました。
どんなに充実した毎日を送っても、友達のする何気ないその子のお母さんの話や
保護者会の日に見るたくさんのお母さんたちに胸がぎゅっとなることもあるけれど、
私はママの娘として生まれてくることができて本当に幸せです。
生まれ変わってもママの娘に生まれてきたいな。
でもその時はもう少しだけ長く一緒にいたいよ。
生まれてから一緒に過ごした12年間で最期にママの目に映った私は
どんな姿だったのかな。本当は笑顔で送り出 したかったけど、
もしかしたら頼りない姿を見せてしまったかもしれない。
だけど心配しないで。私はママが思っている以上に大きく強くなったよ。
だからこれからも誰かの生きる目的になって、
まわりのみんなを幸せにできる大人に少しずつ近づいていくね。
ママ、産んでくれてありがとう。
【作者】 | スマイルさん (男性・54才・愛媛県) |
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おかあさんへ
自分の手でありがとうの手紙を書きたくて
少しだけ動く右肩に力を付けるために30グラムのおもりをひっぱり、
上がらない腕を支えるための装具を作ってもらい、
落ちたりずれたりしないように動かなくなった指の間にはさんだペンを
包帯でぐるぐる巻きに留めてもらいました。
全身マヒの障害を負ったぼくを自分の命を削りながら
24時間ずっと介護をしてくれてありがとう。
目をまっ赤にしながら辛い死にたいというぼくの動かなくなった手を握って
心を支え続けてくれてありがとう。
おかげで今ではおかあさんがぼくにくれた笑顔を
すてきだねってたくさんのひとに言ってもらえるようになりました。
笑顔をほめてもらうって
おかあさんをほめてくれているようでとてもうれしいです。
今のぼくにできる親孝行は少しでも長生きをして
もっともっとすてきな笑顔になる事。
だから今度会う時は年下のおかあさんだね。
その時はデートしてくれますか。
全世で一番大好なおかあさん。
本当に本当に本当にありがとう。
【作者】 | 如月光生(きさらぎこうせい)さん (男性・68才・福島県) |
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母さん、憶えてますか。
あの時、母さんはとうに九十歳を超えていましたね。
母さんは腰を痛めて、ほとんど寝たきりになり、そして認知症にもなっていました。
我が子の名前も忘れ、片言の話はできても、すぐに忘れちゃうんですよね。
「きょうは何日だっけ?」と何度も聞くわけです。
何度答えても、悲しいほど記憶に残りませんでした。
それを承知で、母さんを車に乗せて、満開の桜を見に行きましたね。
「ほら、母さん、北小学校の桜だよ」
ゆっくり走る車の中から、母さんは桜を見て、
「きれいだねえ。北小の桜を見るの何年振りかねえ」と言ったのです。
その三日後、母さんに会った時、ちょうど窓の外では、
何枚もの桜の花びらが風に流され空に舞っていました。
それを見ていた母さんはぼそっとつぶやいたんですよ。
「あっ、思い出した。光生(こうせい)に連れられて車の中から見た北小の桜、
きれいだったねえ」
涙がこぼれました。小さな奇跡でした。
その時、母さんから教えられましたよ。
生きるっていうことは大変だけど、すばらしいって。
母さんが亡くなって、もう三年。
今年ももうすぐ桜が咲きますよ、母さん。
【作者】 | T.T. さん (女性・59才・福島県) |
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前略
お母さん、元気にしてますか。
1年も経つのでそちらの生活も慣れたでしょうね。
私はお母さんに代わって、一人になったお父さんの面倒をみていますよ。
お母さんが一番気になっていることでしょうからね。
でも、最初は自分の服がどこにあるのか、ご飯の温め方はどうするのか、
わからないことばかりでどれだけお母さんに頼っていたのか、
一人になって初めて気づいたようです。
24時間、365日いつも一緒にいたお母さんがいなくなって、
一時は元気がなくなり静かなお父さんなってしまいましたが、
子どもたちや、孫たちが遊びに来てくれているので、
少しずつ元気を取り戻しています。
「震災でできなかったけど、今年の春は田んぼでもやろうかな」
なんても言えるよ うになってきています。
お父さんのことは私たちに任せてください。大丈夫ですから。
それから、仏壇にはお母さんが好きだった四季折々の花を飾っていますよ。
母の日にはもちろん毎年プレゼントしていたカーネーションの花を飾りますね。
みんな、お母さんの分まで元気を出し頑張っていますから、
どうぞ見守っていて下さいね。
【作者】 | 香雪 溯那さん (女性・43才・京都府) |
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お母さん
今年もお母さんが、息子に買ってくれた、鯉のぼりが、
元気いっぱい気持ち良さそうに泳いでくれています。
それを見ながら、子どもの成長を喜んでるの。
天国からも見えていますか?私達と鯉のぼり。
今日は母の日やね。そして、私のお誕生日。
私も遂にお母さんが生きた年より、長く生きることが出来ました。
ここまで、色々あったけど、やってこれたんは、お母さんのおかげです。ありがとう。
最近お父さんに、よく言われんよ?
「お前は、お母さんにそっくりや。よく怒って、よく泣いて、よく笑って、
いっつもやかましいなぁ。」って。
いつも通り、ぶっきらぼうなお父さんやけど、
そんな私をお母さんと重ねて見ては、涙ぐんでるよ。
私は、お母さんに似てる自分を誇らしく思ってます。
お母さんの墓前に来ると、色んなこと【振り返るゆとり】が生まれます。
【自分と向き合うこと】も、不思議と容易くできるんよね。
だから、お墓参り来たら、心が軽くなるの。
お母さんが、お墓参りは先祖のために行ってるようで、
自分のためになるんやでって、言ってたんが、今はよく解ります。
お盆は、息子達も連れて会いに来るからね。
じゃぁまたね。
【作者】 | H.S. さん (女性・61才・愛知県) |
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「私ね娘が欲しかったの でも授からなかった、
だから今日から初ちゃんは私の娘です」
嫁いだ時お義母さんは私にこう言ってくれましたね。
おかげで一気に不安が吹っ飛びました。
「わぁ~この娘絶対美人さんになる!だって私にそっくりだもん」
娘が生まれた時もとてもとても喜んでくれましたね。
お義母さんの宣言通り?美人さんになりました。
お義母さんが逝ってからもう1年、そちらの生活にはもうなれましたか?
ところでお義父さんと腕と腕を組んでいますか?
「私 旦那さんと腕組んで歩いたことないの、
あの世に言ったら無理やりにでも腕組むの」って言っていましたね、
お義父さん今頃顔真っ赤にしてるだろうな。
お義母さんが愛した家族は元気でやっています、
だから心配しないでくださいね。
それではいつかまた会える日まで。
追伸です
最近あなたの息子が「お前おふくろに似てきたな」ですって。
嫁としては大変光栄でございます。
【作者】 | 桜桃 さん (女性・34才・新潟県) |
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お母さん。
今年もまたお母さんのいない母の日がやってきますね。
明るくて優しくて、誰からも好かれたお母さん。
突然の病で逝ってしまってから、もう五年も経ちます。
実はね、ひとつ、大きな後悔があります。
お母さんが病床で食べたいと言った、梨。
あれは六月で、私はスーパーを二件まわったけれど見つからなくて、
代わりにりんごを買ってきたんだよね。
お母さんは一瞬がっかりした顔をしたけれど、すぐに笑って「いいよ」と言ってくれた。
そしてその五日後、容体が急変して、亡くなってしまった。
まさかあれが最後のお願いになるだなんて。
もっと必死で探せば良かった。今でも悔やんでいます。
食べさせてあげられなくて、本当にごめんね。
ねえ、お母さん。お母さんが亡くなって三年後、私にも初めての子どもができました。
女の子です。名前は、梨に心と書いて、梨心。りこといいます。
あなたがこの子を空からずっと見守ってくれますように、
そしてあなたのように優しい心を持った子に育ちますように。
そんな思いをあなたが最後に望んだ梨の字に込めて名付けました。
その子も今では一歳半。元気にスクスクと育ってくれています。
母の日には梨心を連れて、お母さんの墓前にお参りに行くからね。
五月はまだ梨の時期には早いから、
お供えはやっぱり代わりのりんごになってしまうけれど。
でも優しいあなたのことだから、きっとまた笑って許してくれることでしょう。
【作者】 | 頑張ってるお父さん さん (男性・49歳・新潟県) |
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【題名】 | ばあちゃん(母)、素直になれずゴメン |
母が十数年前に他界した。
歳を重ねても唯一、頭があがらないのが母だった。
娘はそれを敏感に感じとり、私がカミナリを落とすと、よく「婆ちゃんに言いつけてやる」等と小さな抵抗をみせた。
母は孫娘を溺愛し、娘も超がつく程の婆ちゃん娘だった。
その娘が今年から新潟を離れ大阪で1人暮らしを始めた。
私は事あるごとに電話をするのだが、良くできた娘で煙たがらず近況を伝えてくれる。
お父さん、大丈夫だから心配しないでと。
私も若い頃、県外就職組だったので母からよく電話を貰った。
その当時、自分は男だというプライドと若さも手伝って、母に対して随分とつっけんどんな態度を取ったものだ。
しかし今こうして娘の心配をしていると、母がその当時かけてくれた言葉が、時空を超え私の心に突き刺さってくる。
人生のゴールがそろそろ見えてきた今頃になって、30数年前にかけて貰った母の言葉に感謝し涙する。
生きている内に、もっと母と向き合うべきだった。
私達には言葉がある。愛を伝え、感謝を伝えるその言葉で、くだらない事でも日常の小さな出来事でも、もっともっと会話をするべきだった。
孝行したい時に親はなし-そんな当り前の言葉が身に沁みる。
ある日、大阪の娘から電話があった。
「お父さん、母の日参りって知ってる? 母の日に新潟に帰るから、そしたら婆ちゃんのお墓参りに行こう。婆ちゃんの好きだった栗羊羹を持ってさっ」
頬から流れた涙が受話器を伝ってポロリと落ちた。
【作者】 | yukari さん (女性・38歳・静岡県) |
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【題名】 | 自由を謳う左手 |
「左利きは不便だからって、小さい頃、ママのママに無理やり右利きに矯正されたの」
正しい箸使いを教えながら、美しい書を教えながら、事ある毎に幼い私にそう話していたママ。
だから私の知っているママは、右手の巧みな箸捌きで焼き魚を食べ、流れるような綺麗な字を書く書道の先生だった。
でも七年前の夏、ママは脳梗塞で右半身に麻痺が残った。
右手の自由も奪われ、三十年間掲げた書道教室の看板を悔しそうに下ろした泣き顔を、ママが逝って一周忌を迎えた今でもはっきり覚えているよ。
凄く辛かったよね。
…だけど、半年後の元旦。
酷い乱筆の年賀状が私の元に届いた。
『明けましておめでとう。半世紀ぶりに左手で書く年賀状です。
五歳に戻った気分で懐かしく、ワクワクしながら書いています。
昔取った杵柄?どう?なかなかのものでしょ?』
あんなに流麗な字を書く人だったのに。
思うように体が動かせず、もどかしくて苦しい筈なのに…
過酷な試練さえ、懐かしいという感情に染め変え、ワクワクというポジティブさで楽しめるママ。
そんなしなやかで強靭なママを逞しく誇らしく思ったよ。
右の自由を奪われても、あの時ママはきっと六十年ぶりに左手の自由を取り戻したんだよね。
この一葉の年賀状は、ママの再生の証。だから、今でも大切な私の宝物。
いつの日か、私がママに会いに行く日が来たら、その時は天国でも私に書道を教えてくれる?
…勿論、左手でね。
【作者】 | 夢うつつ さん (女性・63歳・東京都) |
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母さんが亡くなってから3年、天国では「お母ちゃん」に会えましたか?
いつも明るく優しかった母さんが認知症となり、晩年には笑顔さえ忘れ、まるで別人のようになってしまいましたね。
「しばらくお母ちゃんに会ってないから会いに行ってくる」と昼夜を問わず徘徊し、「母さんのお母ちゃんはもう50年以上も前に亡くなっているでしょ」と何度言っても理解できませんでしたね。
霙まじりの冷たい雨が降る深夜、私がちょっと目を離した隙にシャーベット状になった庭先を裸足でうろうろ歩き回っていたのです。
冷えきった体をブルブル震わせ、「お母ちゃんに会いたいんだ」とくり返す母さんを抱きしめながら「どうしてこんなことするの!」と強い口調で叱ったのです。
赤くなった母さんの足を洗いながら、私は涙が溢れ、お風呂場で声を出して泣きました。
あの頃の私は、母さんの気持ちに寄りそうことなく、介護の辛さを嘆き、ただただうろたえてばかりの親不孝の娘でした。
「ばあちゃん、明日お母ちゃんに会いに行こう!」
あの時の息子の一言はまるで魔法のようでした。
久しく忘れていた母さんのこぼれるような笑顔・・・。
母さんが愛して止まなかった孫は優しい嘘のつける大人になりました。
そして、今、私はあの頃の母さんの気持ちが痛いほどわかります。
「しばらくお母ちゃんに会ってないから会いたいよ」
【作者】 | 星田 由希子 さん (女性・56歳・奈良県) |
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【題名】 | 松山に行こう |
母さん、父さんの故郷の松山に招待されたよ。
なんとエッセイの表彰式。
誰よりも喜んで、おめでとうと言ってくれる笑顔が目に浮かぶ。
母さんが元気なときだったら、絶対に一緒に行こうって誘っていたのに、それだけがとても残念。
確か私が小学校に上がる前、家族で松山に行ったよね。
道後温泉の大広間で、お団子を食べたことだけは覚えている。
あそこまで行って、有名なお風呂には入らなかったのかな。どうなんだろう。
今は母さんも父さんもいないから、この記憶が正しいのか聞くことができない。
正直悔しいよ。他のいろいろな思い出も、もう誰とも話せない。
だからどんどん色あせてきてしまった。
それは思いがけず、すごく寂しいことだと今になって気がついた。
だけどね、父さんの妹さんに電話をしたら、今も松山に住んでいるから会いましょうって。
叔母さんは当時の懐かしい話もしましょうと言ってくれている。
記憶を確かめることができそうだよ。
母さんは病気が治ったら、松山の道後温泉にもう一度父さんと行きたいって言ってたよね?
それを思い出して、いいこと考えついたんだ。
いつもリビングに飾っている二人が仲良く並んでいる写真。
大事にスカーフに包んで、バッグに入れて直彦さんと松山に行くね。
私たちも久しぶりの夫婦旅行。道後温泉も松山城も一緒に行こう。
そして叔母さんと叔父さんにも会おう。
きっと懐かしい話に花が咲くよ。
【作者】 | かずさん さん (男性・65歳・京都府) |
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【題名】 | かあちゃんの涙 |
かあちゃんがぼくに初めて見せた涙は、痛かった。
小学五年生の頃の話だ。
戦後二十年、それでもぼくたちの暮らしは貧しくて、ジュースやサイダーを飲むことなど、とてもできなかった。
せいぜい粉のジュースのもとを水にとかして、その甘さを味わうのが関の山。
甘さに飢えていた子ども時代だ。
ぼくと兄ちゃんは、思いあまって、町の酒屋の倉庫に盗人に入ることにした。
倉庫の中には、新品のサイダーが山積みされているはずだったからなあ。
けれど、倉庫には何もなかった。
ぼくたちの心に残ったのは、倉庫を襲ったという恐ろしい事実だけだった。
ぼくは、こわくなって、翌日かあちゃんに事実を打ち明けたよね。
その夜、ぼくたちは、とうちゃんかあちゃんの前で正座させられ、きつく叱られた。
かあちゃんは、何も言わずに泣いていた。
ぼくは、まともにかあちゃんの顔を見ることができなかったよ。
なあ、かあちゃん。あの時のかあちゃんの涙が、ぼくにはきつくこたえたんだ。
歪んだ道を歩いてはいけないと強く教えられたんだ。
あれから、五十有余年。
ぼくは、真っ直ぐに生きることのつらさや難しさを感じながらも、教員の仕事を続けてきたつもりだ。
かあちゃんの涙の痛さが、ぼくの人生の土台を築いてくれたと今更ながらに感謝している。
かあちゃん、ありがとう。
【作者】 | バルボア さん (男性・49歳・神奈川県) |
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【題名】 | ねえ、お袋もそう思うでしょ?(笑) |
お袋聞いてよ(笑)
この前親父がいきなり「明日は洋服ポストの日だ」と、メールしてきた。
俺は何の事か分からず、「洋服ポストって何?」って聞いて、びっくりした。
どうやら親父は、洋服ポストという、月一回要らなくなった洋服を、回収して、アフリカなどに寄付する運動に、残っていたお袋の洋服を寄付しているらしい。
親父は「お洒落好きだった、母ちゃんの着てない洋服いっぱいあるから、寄付している。」と、言ってきた。
もうお袋亡くなって10年になるけど、親父は、何も言わないけれど、寂しいかったのか、最近までそのまま、家に置いてあったようだよ。
でも一気に寄付するのでなく、少しずつ寄付しているみたいだよ。
やっぱり全部一気に寄付してしまうと、寂しいのかもしれないね。
遠い国でお袋の洋服が、誰かに着てもらえて喜ばれているかもしれない、そう想像すると、凄い嬉しい気持ちになるよ。
それにしても、親父も「カッコイイ事するな??」と思ったよ。
ねえ、お袋もそう思うでしょ?(笑)
【作者】 | みずいろ さん (女性・36歳・東京都) |
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【題名】 | かみさま |
お母さんへ
お母さん、私もお母さんになってもうすぐ8年になるよ。
男の子のお母さんだよ。びっくりでしょ?
息子がね、もう少し小さい時によく言っていたの。
「はやくおとなになりたい」って。
それでね、ある日ふたりでお風呂入ってたらさ、言うんだよ。
「はやくおとなになりたいけど、おとなになったらかーかはいなくなっちゃう」
それで、天井を見上げながら大きな声で言うの、ポロポロ泣きながら。
「かみさま、お願いです!かーかを長生きさせてください!どうか…!!」って。
お母さん、覚えてる?
私も小さい頃、「かーかがいつかいなくなっちゃうなんてやだ」ってしょっちゅう泣いていたのを。
若い頃に父親を亡くしたお母さん。
その時ね、どんな気持ちで私の言葉を聞いていたのか初めて分かったような気がしたんだ。
お母さんがガンだと分かって、真夜中にひとり叫んだことも思い出したの。
「神様、助けてください!お母さんを助けてください!」って。
いつかのお母さんが、今の私に重なっていつかの私が、息子に重なってお風呂で一緒にポロポロ泣いちゃった。
かなしい、さみしい、うれしい、あったかい
でもやっぱりさみしい そんな気持ちになったよ。
お母さんになって、お母さんの追体験をしているように思うことがたくさんあるの。
いつか、答え合わせができるかしら。
それじゃあ、また書くね。
【作者】 | ケイト さん (女性・64歳・栃木県) |
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【題名】 | 待っていてね |
あなたが初めて私にねだった毛糸玉、覚えていますか。
ボーナスで何か買ってやると言ったら目を輝かせて、「セーターを編みたい」と言ったわね。
夕暮れの街を、腕を組んで、手芸店まで急いだわ。
棚の中から緑色の毛糸玉を取ってじっと見つめるあなたの瞳は、まるで少女のように透き通っていた。「高価すぎる」と迷っているのを遮って、セーターが編めるだけの玉数を買い求めた。
出来上がったセーターは、あなたにとても似合っていた。
二人で相談して、胸元に小花を飾ったわね。
いま、私の寝室の白い戸棚の中に、そのセーターを着て座っている、痩せ細ったあなたがいます。
作り笑いの顔には、激しい痛みに耐える苦悩が、透けて見えます。
写真に線香を手向けるたびに、胸が締めつけられます。
「どんなに苦しかったことか……」と。
あなたの告別式の日に、遺品としてもらってきたあの緑のセーターを胸に抱き締めたら、耐え切れなくなって顔を埋めました。
思いがけず、セーターからあなたの懐しい匂いがした。
胸に抱かれているようで、「おかあちゃん」と、幼い頃のように呼んだら、悲しみが堰を切って溢れ出ました。
お母さん、あれからずっと、セーターを仕舞ったまま取り出せずにいます。
私、いまだに弱虫なのよ。
【作者】 | 泉川太郎さん (男性・80歳・大阪府) |
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【題名】 | 「五枚の十円札」 |
母さん、昨日六十年ぶりに、子供のころ過ごした家に行ってきました。
山に囲まれた麓に廃墟となった家が、まだ残っていましたよ。
庭は雑木林のようになり、大きな庭石だけが、昔のままでした。
庭石に座って、あの日を思い出しました。
あれは小学五年生のときの、盆踊りの夜でした。
兄弟三人が、母さんから三十円ずつの小遣いを貰いましたね。
僕は夜店で五十円のコマを買おうと思っていたのです。二十円足りません。
弟二人から十円ずつ取り上げました。
母さんは「うちは貧乏やから辛抱しとき」と、怒ったね。
僕は受けとった三十円を庭石に叩きつけました。
「貧乏は母さんと父さんのせいや。僕には関係ない!」
と、母さんを睨みつけました。
母さんは悲しそうな顔をして、涙を流していました。
僕は泣きながら「盗んでやる!」と、走りました。
「そんなことしたらあかん」と、うしろで母さんの声が。
でも、途中でお金を持っていないのに気付き、引き返しました。
硬貨は見当たりません。
庭石の上に、十円札五枚と一枚の紙が。
『コマを買いなさい』と、書いてありました。
あの日の事を後悔しながら、庭石に座っていると、
今にも家の中から母さんが現れそうでした。
久しぶりに泣きました。
家に帰り、早速母さんに手紙を書いています。
今まで謝らずにごめんなさい。
また、ふるさとに出かけるつもりです。
【作者】 | 愚か者さん (男性・50歳・神奈川県) |
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【題名】 | 母さんへ |
中2の夏。たった一度だけビンタをもらった左頬。
両目に涙をいっぱい溜めながら思いっきり振り下ろした
あの感触が今でも心に残っています。
学生時代は悪さばかりで母さんには事ある毎に他人様に
頭を下げさせてばかりだったね。
いつか「何で怒らないの?」って聞いた時
「母さんが怒らなくたって散々怒られて来たんだろう?
大人になってから同じ事するんじゃないよ。」
と言ってポンポンと優しく頭を叩いてくれたね。
そのお陰か何か分からないけど、大人になってから確かに悪さはしてないよ。
今、母さんが「当たり前だよ」と楽しそうに笑ってる声が聞こえたような気がする。
いつも見守ってくれてるんだね。
ありがとう。本当にありがとう。
過去を振り返ると日々反省の連続。
だけど、後悔はたった1つだけ。
あの時の事。ちゃんと謝る事が出来なかった事。
思い出す度、左の頬にあの時の感触が。平手の感覚が甦る。
今、この場を借りてちゃんと謝りたいと思います。
母さん。俺はあなたを一度だって実の母ではないなどと思った事はありません。
例え生んだのは違う人でも、あなたに育ててもらった事。
本当に幸せでした。
「お前なんか本当の母親じゃない」などと本当に、本当にごめんなさい。
母さんは世界一の母さんです。
もし生まれ変われるとするならば、その時は必ず俺を生んで下さい。
それまで、いつも俺と俺の妻と子供を見守っていて下さい。
【作者】 | ひろかずさん (男性・68歳・愛知県) |
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【題名】 | 私の宝物 |
母さん、
今年で僕は68になりました。
母さんが逝ってからもう43年も経ちます。
あの時、母さんの遺品を整理していて日記帳を見つけました。
母さんの名誉のために読むべきではない、とは思いましたが、
生前の母さんに触れてみたくて読んでしまいました。ごめんなさい。
「病気に負けたくない」という願いと、
僕のことを「私の宝物」と書いてあるのを読んで涙が止まりませんでした。
もっと親孝行をしたかった。母さんに「ありがとう」と言われたかった。
でも叶いません。
せめて母さんの宝物として恥じない生き方をしていこう、
とあの時心に誓いました。
二人の娘は立派に育ち、良き伴侶を見つけて
今ではそれぞれ4人、3人の子持ちです。
僕が子供の頃、「七人の孫」というテレビドラマがあったけど、
僕が今、その立場です。
日頃は夫婦二人の静かな生活ですが、
学校の休みに娘一家が帰省すると大騒ぎに変化します。
母親をしっかりやっている娘達や、走り回る孫たちを見ていると、
母さんが書いていた「私の宝物」という思いが本当に良くわかります。
家族って良いものですよね。
僕がこれまでちゃんと生きてこられたのは
母さんが優しく厳しく僕を育ててくれたおかげと感謝しています。
いつかそっちで会う時に母さんに言われたい。
「あんたは私の宝物として良くやったよ」
でも母さんは49のままなんですね。照れちゃいそうです。 裕一
【作者】 | 太田 海子さん (女性・62歳・兵庫県) |
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【題名】 | 母は両親 |
小学生の時、「父親参観日」にお母ちゃんが来てくれました。
「お母ちゃんだから来なくていいよ」
と言っても必ず来てくれました。
たくさんのお父さんの中、お母ちゃんは一人でした。
ちょっとはずかしかったけれど、嬉しかった。
先生に当てられて緊張しましたが、ちゃんと答えて先生に褒められました。
(お母ちゃん、見ていてくれたよね)
振り返るとお母ちゃんはいませんでした。
お姉ちゃんの所へ行ったのか ― とがっかりしました。
「三人いるから、授業参観は大変!」
お母ちゃんは何だか嬉しそうに言っていましたね。
昭和三十四年、お父ちゃんが交通事故で亡くなった時、
お姉ちゃんは六歳と四歳、私は二歳でした。
お母ちゃんは女手一つで私たちを育ててくれました。
二十三年前、お母ちゃんは突然、心筋梗塞で倒れました。
二週間後、お父ちゃんの所へ逝きました。六十九歳でした。
亡くなる少し前、私たち三姉妹の顔を見ながら、お母ちゃんは言いました。
「お父ちゃんが生きていたら、ずっと専業主婦だった。
働くことで多くの人たちと出会い、いろんなことがあって、人生おもしろかった。
みんながいるから、がんばれた」
お母ちゃんは背負っている苦労を感じさせない、明るい人でした。
気が強くて負けず嫌い。よく喧嘩して、
「お母ちゃんなんて、大嫌い!」
と、言ってしまったけれど、私はお母ちゃんが大好きでした。
お母ちゃんは、私の「両親」でした。 終
【作者】 | ぺっとぼとるさん (男性・25歳・神奈川県) |
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【題名】 | ホワイトボード |
我が家には、母さんのアイデアから生まれた便利グッズがたくさんあったね。
居間の壁に掛けられたホワイトボードもそのひとつだ。
A4サイズの小さなホワイトボードは四分割されていて
父、母、僕、妹の名前が書かれている。
母さんが提案した簡易日程表だ。
自分の枠に当日の予定を書くのが我が家の小さな決まり事だった。
母さんが事故に遭った日は平日だった。
パートを終えた母さんが帰宅途中に乗用車にはねられたその事故は、
当時小3だった僕にとって早すぎる親の死だった。
数日後、僕は壁に掛かった予定表に気が付いた。
日付けは、母さんが事故に遭った日のままだった。
父・仕事、母・仕事、僕・学校、妹・学校。
もしもこの日、予定欄が「休み」になってたら母さんは死なずに済んだのかな。
子供心にそんなことを考えていると、
妹がホワイトボードに近づいてきて仕事の文字を消した。
それから黒のペンで大きく「おやすみ」と書いた。
妹も同じことを考えてたんだな。僕がそう思っていると、妹が言った。
「これでお母さん、天国でちゃんとお休みできるね」
こちらを振り返り、笑顔でそう言った。
その瞬間僕はハッとした。
妹はいつも忙かった母さんに、天国では休んでほしくてそう書いたんだ。
僕が実家を出るタイミングで、ホワイトボードは押入れにしまうことになった。
母さんの欄の「おやすみ」の文字を残して。
今まで育ててくれてありがとう。天国では、ゆっくり休んでね。
【作者】 | 夢童子さん (男性・64歳・茨城県) |
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【題名】 | 幸せのかくれんぼ |
見落としがちな小さなことから、悦びを見つけることが得意だったよね。
雪国の冬は、じっと耐える期間ともいえるが、雪は子供にとって
天から贈られた無償の最高に贅沢なおもちゃだ。
テレビもゲームもない時代、汚れない泥んこ遊びとも言えるが。
雪は、まっすぐ降る時は、『しんしん』と降ると言うんだよ。
雪が、まっすぐ降ってくるとふんわり積もるので、静かになるんだよ。
静かな夜の贈り物だね。
雪遊びで、赤く冷たくなった手に息を吹きかけ、
息はね、寒くなると白くなるんだよ。
でもハーと言うとあったかいよ。
川原を歩きながら、
ほら、ふきのとうがでてきたよ。食べたら春の味がして、おいしいよ。
干した布団は、温かふんわりで子供の即席の遊び場になるが、
干した布団は、お日様の匂いがするよ。
お日様のおすそわけだね。
幸せは、かくれんぼが上手なんだよ。
早くみつけてもらいたいと思ってるんだよ。
思春期となり、『母ちゃん』とは人前で言いにくくなり、照れ隠しから
試行錯誤して出した答えは『お袋』でした。
でも最後の呼びかけは、やはり『母ちゃん』でした。
思い出すのは、他愛ないこんな事ばかりです。
でもこの歳になるまで大病もせず、頑丈な体で産んでくれた
『母ちゃん』に感謝しています。
今月で一周忌となります。
『母の日参り』という文字を見つけたら、想い出して手紙を書きたくなりました。
【作者】 | しし丸さん (男性・43歳・宮城県) |
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【題名】 | 「パぁバの割烹着」 |
前略お袋様。
お袋が逝き20年、19回目の母の日だね。
お袋が抱けなかった孫娘の話をします。
午年のじゃじゃ馬娘も高校3年生になりました。
本当に早いよね、その娘が去年の父の日に、
初めて手料理を作ってくれました。
父の日とはいえ、急に料理をなんて言うと、
年頃の娘だけにもしやと訝る父をよそに、
「唐揚」と「豚の生姜焼き」と「水団」が運ばれてきて驚いたよ、
俺がお袋にリクエストしたベスト3メニューなんだから。
いつの間にかお袋がカミさんに伝授しててさ、
それを又知らぬ間に娘に教えていたとは…。
でもお袋の味が受け継がれた瞬間なんだとね、妙に嬉しく思ったんだ。
食べようと娘に頂きますと言おうと見ると、お袋の割烹着を着ていてさ、
その横でカミさんが笑っててね、参ったよ。
娘が「どうしても初めてパパに料理を作る時は、
パぁバ(パパの婆ちゃんの略)の割烹着で作りたかったの。
パぁバには会えなかったけど、ママもパパも大好きなパぁバだし、
これを着るとパぁバに抱っこされてる感じがするの。」なんて言うからさ、
視界がボヤけてしまったよ。
お袋は孫を抱けなかったけど、お袋の温もりが残ってる割烹着が、
カミさんと娘を優しく抱いているようにしか見えなかったよ。アリガトウ。
娘が「味は?って言うか泣いてんの?」なんて言うからさ、
「う~ん少ししょっぱいかな?まだまだ割烹着の伝授は先だね!」
と言ってやったよ。
暫く無視されたけど、いい娘に育ってくれてますよ。
そっちでも自慢してね。お袋様…。
【作者】 | 一柳二三さん (女性・59歳・東京都) |
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【題名】 | ゴメンばかりでゴメン |
お母さん、今何してる?
わらび採りに車で連れてくって約束したのに、すっぽかしてゴメン。
秘密の場所に早く行かねばと楽しみに待ってたんだよね。
何より、勝手に結婚し、勝手に出て行ってゴメン。
怒ってたって後でおばさんたちから聞いた。
でも私には一言もそんな事言わず、
遠くで暮らす私をいつも心配して気遣ってくれた。
お母さんに対してはいつも自己チューな私だったのに。
ダメダメ人間の私をまるごと受け入れてくれた。
今分かるよ。私も母になり子どもを育ててみて。
母親の大変さ、有り難さ、子を思う気持ちの深さ。
それなのに。
年取って弱って色んな事忘れてしまったお母さんに優しくできずゴメン。
お父さんが早くに病気で倒れ、子供3人を寝食削って育ててくれた。
感謝してるのに、あの逞しいお母さんが弱ってしまったのが悲しくて。
どうしようもない恨み節をぶつけてしまってゴメン。
会うたびに優しくしようって思うのに。
ガラケーに残っている最後のお母さんの写真。
病院のベッドで微笑んでる。童女のようで菩薩のようで。
私のお守り。どんな逆境にあっても広い優しさで包んでくれたお母さん。
私もそうなりたいよ。トシオ君や子ども達や、やがて出会う孫達の安全地帯に。
お母さん、桜がきれいだよ。
いつかタクシーの運転手さんに頼んで、
牧場の桜並木を車の窓から花見しながら病院から家に帰ったよね。
私の宝の時間だよ。
私まだまだ頑張るよ。
【作者】 | じゅんさん (男性・36歳・東京都) |
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【題名】 | 未使用のオムツ |
三年前僕に第一子が生まれ、育休を取った。
今は男性も育児をする時代。周りにはそうやってカッコつけた。
でも本当の理由は脳梗塞の母ちゃんを介護するためだった。
いくら妻でも母ちゃんの下の世話までやらせるわけにはいかない。そう思った。
妻がいない間のダブルケア。それは想像以上にキツかった。
とりわけオムツ替えは覚悟を要した。
息子のウンチは無臭であるのに対し、
母ちゃんのは思わず鼻をつまみたくなるほど。
できれば「大」じゃなきゃいいのにって毎回思った。
それでも母ちゃんは言った。
「ありがとなあ」って。震えた声で。だけどやさしいまなざしで。
思えば僕もこうやって母ちゃんによく看病してもらった。
高熱が出れば夜中でもおぶって医者に連れてってくれた。
あの時僕は母ちゃんの背中で嘔吐した。
それでも「大丈夫か、大丈夫か」って背中をさすってくれた。
自分は背中じゅうゲロまみれなのに。「くさい」なんてひと言も言わないで。
なのに僕は礼のひとつも言えなかった。
そして昨年母ちゃんは帰らぬ人となった。結局最期までお礼は言えなかった。
部屋に残された未使用のオムツ。
今では息子も一人でトイレに行けるようになり、
オムツ交換の出番は完全になくなった。
あれだけ嫌がってたオムツ替えなのになぜだろう。
もう母ちゃんの「ありがとう」を聞くこともないと思うと、
鼻を突くようなあのニオイさえ懐かしい。
未使用のオムツはまだ処分できそうにない。
【作者】 | ゆかさん (女性・28歳・三重県) |
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【題名】 | 私の自慢のお母さんへ |
お婆ちゃんへ
お婆ちゃん、元気ですか?
私はお婆ちゃんがいなくなってから泣いてばかりの毎日でしたが
去年7月に息子が産まれ、この子の為にもと泣かずに毎日頑張っています。
小さい頃に両親が離婚し、お婆ちゃんがもう一度母親になると決心して
私を育ててくれたよね。
母の日に周りがお母さんの絵を書いているのに、私はお婆ちゃんの絵。
授業参観や運動会はみんなお母さんが来ているのに、私はお婆ちゃんが来ている。昔はそれがたまらなく嫌でした。
でもそんなことを思っていた自分に今はすごい反省をしています。
今になって私から見てお婆ちゃんはどのお母さんより輝いていたと気づきました。
だってあそこにいた誰よりも母親の経験が長いもんね。
お婆ちゃんが亡くなる前に
「ゆかをひきとってよかった。だって色んな所に連れてってもらって
たくさん思い出作れて、他のお婆さんの誰よりもいい経験ができたから。」
と言ってくれました。
沢山迷惑かけた私だけど、少しは親孝行できたのかな…?
私も母親になり、お婆ちゃんのようなお母さんになりたいと思っています。
優しく厳しく、でも愛情をたくさん注いでくれる、そんなお母さんになります。
お婆ちゃんに孫を見せれなかったことが後悔だけど、
きっと天国で見守ってくれてるよね。
お婆ちゃんはいつまでも私の自慢の母親です。
恥ずかしくてずっと言えなかったけど最後に言わせてください。
お母さん、ありがとう。
【作者】 | 宇宙忍者さん (男性・80歳・東京都) |
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【題名】 | 母ちゃんのおにぎり |
母ちゃん!
私に、「人生とは自分なりのおにぎりを握り続けること」ということを、
身体をはって教えてくれた母ちゃん!
私は年相応の衰えはありますが、何とか元気に傘寿を迎えることができました。
母ちゃんは戦後、若くして夫を亡くし、私と妹を連れて、郷里の大洗に戻り、
行商をしながら私たちを育ててくれましたね。
母ちゃん、片道一時間電車に揺られて水戸に出向き、
水戸近郊を毎日重い荷物を背負って歩き回り、本当に働きづめでしたね。
そんな母ちゃんが、時折、夜分に沢山のおにぎりを握って、翌日外出するのが
幼い私にはとても不思議で、
私はある時こっそり母ちゃんのあとをつけていきましたよね。
母ちゃん、覚えていますか。
母ちゃんは水戸から常磐線に乗って上野駅で下車、
暗い何か不気味な地下道を抜けて、
母ちゃんは沢山の戦災孤児におにぎりを配っていましたね。
経済的にも体力的にも極限状態であったであろう母ちゃんが、
上野の子どもたちに精一杯の愛情を傾けていたこと、
あの時私はとても驚きましたし、感動して心が震えましたよ!
私は、後に東京で理科の教師になりました。
子どもたちに、試験で良い成績をとることよりも、わからないことを
理解できる喜びをかみしめてほしい一心で仕事を続けてきました。
今は退職して、子どもたちに理科の本を書き残したいと思っています。
母ちゃんが教えてくれた、「私なりのおにぎり」ずっと握り続けますからね。
【作者】 | カゲオさん (男性・50歳・東京都) |
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【題名】 | 恋人の残影 |
あなたの墓前で白い花が頭を垂れています。
きっとあなたが好きだった花なのでしょうね。
月命日には必ずそこにありました。
誰なのだろう。
まだ小学生だった私は、あなたの死を受け入れるまでの橋渡しに、
探偵ごっこをしてみました。
けれど思いつく限りの人たちは、供え主ではなかったのです。
月命日、どうにか突き止めたくて、夜が明けきらぬうち
あなたの眠る場所に向かいました。
思わず駆け出してしまったのは、入り口に白い車が止まっていたからです。
目をやると墓石の並んだ道を背の高い男の人が歩いてきます。
柄杓を入れた手桶を握り、もう片方の手はポケットでした。
子どもがいるとは思わなかったのでしょう。
ちょっとおどけた仕草で避けて見せ、そのまますれ違いました。
首筋を隠すくらいの長めの髪で、
線香ともタバコともつかぬ煙をまとわせています。
見送りつつあなたの墓前に目をやると、いつもの花がありました。
年を十も前借りできたなら、その背に声をかけ、
名を問うことができたのかもしれません。
でもまだ幼い私には彼が自ら振り向いてくれるよう
祈ることしかできなかったのです。
それがただ一度だけ見た姿でした。
あなたのところに行く日が来たら伝えたい。
あなたの死を身に刻み、忘れず花を贈る男がいたことを。
すらりとした背中と白い花、そしてあなたの遺影が、
命日のたびに重なります。
【作者】 | たまこさん (女性・56歳・大阪府) |
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【題名】 | 振袖 |
お母さん。
お母さんが初めて入院したのは私が小学校6年の時やったね。
それから8年間、入退院を繰り返して途中で大きな手術もして。
私が20歳のお正月に容態が急変して一時帰宅ができなくなった時、
正直もうあかんかも、って思ってた。
私はね、お父さんに成人式の振袖なんかいらんから卒業旅行に行きたい、
って言ってたんやけど、お父さんは「絶対にあかん、振袖を作る」って
私の意見なんか聞こうともしてくれなかった。
でもね、成人式の日、朝早くから奇麗に振袖を着せてもらった私を、
お父さんがタクシーに乗せて運転手さんに
「〇〇病院まで行ってから成人式会場にお願いします」
って言った時、着物好きのお母さんに娘の振袖姿を見せてあげたかったんやな、
って思って泣けてきたよ。
タクシーの運転手さんも「お母さんにゆっくり見せて来たりや」って言ってくれてね。
それにも泣けてきた。すぐ泣くやん、私。
結局、その年の5月にお母さんは旅立ってしまった。
たった43歳やった。私なんか、もうとっくにお母さんより年上やからね。
私や弟の結婚式にも出たかったやろうし、孫も抱きたかったよね。
他にもやりたいことがいっぱいあったんやろうな、って思います。
今年は皆でお参りに行くね。
遠いことを理由になかなか行けなくてごめん。
そうそう、私の成人式に作ってもらった振袖は、
娘が(あなたの初孫が)成人式・大学の卒業パーティーで着ましたよ。
【作者】 | yumiさん (女性・35歳・埼玉県) |
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【題名】 | もう |
「もう、お父さんは!」
そう言いながら父ちゃんの脱ぎっぱなしのジャンパーをかける母ちゃん。
身の回りのことはおろか、印鑑の場所さえわからない父ちゃんに
手を焼いていたね。
なぜか私も父ちゃんみたいな旦那様とめぐり会い、
今では脱ぎっぱなしの靴下を洗濯しています。
そんな主人が言うんです。
「お前、どんどんお義母さんに似てきてるぞ」と。
何やら私の「もう!」が母ちゃんにそっくりなんだって。
嬉しいような、でもちょっとなあ。
母ちゃん言ってたね。「父ちゃんより先に逝けない」って。
最期は虚ろなまなざしで、苦しそうな声で。
私だって
「あとは任せてよ」と言って安心させようと思った。
だけど、言った瞬間に母ちゃんがいなくなりそうでやめた。
今思うと 言ってあげれば良かった。
心配だったよね。心残りだよね。父ちゃんのこと。
あれだけ世話を焼いて。あれだけ苦労して。あれだけ大好きで。
ねえ、母ちゃん。
また母ちゃんの「もう!」を聞きたいよ。
強くて、温かい、「もう!」を。
だけど、もう。
こんな風に下を向いてたら「もう、あんたは」って言われそうだね。
悲しむのはもうやめる。
だから最後にひとこと言わせて。
もう、がんばらなくていいよ。
【作者】 | なつかし屋さん (女性・50歳・三重県) |
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【題名】 | 母さんがいる場所 |
私は美容院に行くのが好きです。
綺麗になりたいからではありません。
母さん、あなたを思い出したいからです。
美容院ならどこでもいいわけではありません。条件があります。
静かな所。あまり話しかけてこないこと。 美容師さんがベテラン風な女性なこと。 ………数年前、やっと、条件にぴったりの美容院を見つけました。
母さん、あなたが亡くなって、もう27年が経ちました。
51歳で旅立ったあなた。私は23歳でした。
幼い頃から、あなたは私の髪を毎朝欠かさず、梳かして結んでくれましたね。
その感覚を………美容院に行くと思い出すのです。思い出せるのです。
日々の生活の中にもうあなたはいなくて。
「去る者は日々に疎し」というのも、哀しいけれど本当で。でも。
………触覚は、あなたを覚えています。
私は美容院に行くのが好きです。
美容院では必ず寝たふりをして、髪を触ってもらう時間を味わいます。
母さん。23年間、毎朝毎朝、髪を結んでくれてありがとう。
大切に育ててくれて、ありがとう。
また会いに行きますね。
………美容院で待っていてね。
【作者】 | マサさん (男性・43歳・埼玉県) |
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【題名】 | ずっと伝えたかった俺の想い |
母ちゃん、元気?
こっちは元気にやってるよ。
母ちゃんがいなくなってもう6年かあ。
月日が経つのは早いねえ。
母ちゃん、聞いてよ。
あの父ちゃんが、毎日洗濯しているよ。
毎日掃除もしているよ。
毎日母ちゃんにお茶とご飯も出しているよ。
俺が「すごいね。偉いね。」って言うと、父ちゃん笑ってこう言うんだ。
「母ちゃんに怒られちゃうからさあ。」
「ちゃんとしてないと母ちゃんに悪いだろ。」
あの何もやらなかった父ちゃん、今頑張っているよ。
母ちゃん、そういえば、脊髄空洞症っていう難病だったよね。辛かったでしょ。
でも泣き言も辛い顔も見せなかったよね。
最期は食道癌、気付いた時には末期だったね。
心配かけちゃいけないと思って我慢し過ぎだよ。
64歳、まだ若かった。でもかっこよかったよ最期まで。
俺は闘病中の母ちゃんを見て、本当に強い人だと思った。
泣き言ひとつ言わなかったね。すごい人だよ。
最後に、こんな機会ないから素直に言うね、ずっと伝えたかった俺の想いを。
俺、母ちゃんと父ちゃんの子供に生まれて良かったよ。
母ちゃん、生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
何でだろう、書いてて涙が出てきちゃった…。
泣いてないよ、目にゴミが入っただけだよ…。